vol.2 「死んでみる」という解放――フモール生活への入口
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フモールが単なる概念ではなく、日常の中で実践できる生き方の技術であることが明らかにする。キーワードは「死んでみる」。物騒に聞こえるかもしれない。しかしこれこそが、囚われた自分を解放する、もっとも根本的な方法だと荒谷氏は言う。
デジタルデバイスを取り上げられた日々の中で
荒谷氏には今年、隔週で身体を拘束されるような仕事が入ってきた。機密保持が必要な現場で、スマートフォンもパソコンも取り上げられ、外の世界とは切り離される。
ふだんの荒谷氏は、仕事の案件が来たらその場で処理し、ログに書いて忘れる、というリズムで動いている。「たくさん溜まると『あれもやらなくちゃ、これもやらなくちゃ』という圧力が積み重なって、人間もパソコンのメモリプレッシャーみたいにハングアップしてしまう」。だから、受け取ったらすぐ処理して、意識から手放す。それが荒谷氏の日常の作法だった。
しかし拘束される日には、それができない。デバイスのない環境で積み上がった未処理の案件が、帰宅後に一気になだれ込んでくる。ふだんは「その都度」で動けているのが、完全に「後手」に回される。
「これって、多くの会社員がふだん感じているストレスの構造と、たぶん同じなんだと思う」と荒谷氏は言う。役割と関係性の網の中で、処理しきれない何かを抱えながら動き続ける。その状態が、じわじわと人を追い詰めていく。
イロニーとフモール――「壊す」か「笑う」か
そういうしんどい状況に置かれたとき、人はどう反応するか。荒谷氏は二つのルートがあると言う。
一つは「イロニー(アイロニー)」。「こんな状況、おかしいだろう」という違和感が攻撃性として現れ、「こんな会社辞めてやる」という衝動に変わる。今ある状況を相対化しはじめている点では正しい。しかしその相対化が、外の世界への攻撃として出てしまう。結果として、環境との激しいコンフリクトが生まれる。
もう一つが「フモール」。攻撃性は外に向かわず、自己の無化へと向かう。状況を壊そうとするのではなく、状況に絡められていると思い込んでいる「自分」のほうを、ストンと手放す。
やることは変わらない。タスクは積み上がったまま、一個ずつこなすしかない。でも、そのタスクに絡みついている意味づけや社会性の枠組みから、ふっと自由になれると、同じ状況がまったく違って見えてくる。「なぜでこれやってるか」という社会的な意味づけを外すので「意義」みたいなものに支持をもたせることはできなくなるわけですが、そうすると反対に作業自体にもともと潜んでいた面白さみたいなものも味わえるようになる。それをやっている自分や社会的構造も含めてユーモラスなものに見えてくるようになります
「死んでみる」という技術
では、フモールの状態にどうやって入ればいいのか。
荒谷氏はひと言で言い切る。「死ぬこと」。
もちろん、本当に死ぬということではない。「自分」をその状況で生きている存在だと見なしているから「逃げ場がなく辛い」ので、その枠にハマっている「自分」ごとスッポリと捨ててしまう。
これ、なかなか誤解を生む表現だとは自覚してるのですが、言葉としては一番ぴったりくるんですよね。自殺を推奨しているみたいに聞こえるかもしれないのですが、全然そうではなくて。
やり方としてはただ、「もうこの状態で生きていても意味がなくね?」という感覚を、単なる「絶望」とは違うかたちで自分に向けてみるという感じでしょうか。「絶望」だと、まだ崖っぷちにいる自分を自分だと思っているわけですよね。だからとっても辛いわけですが、そのとき、そこにハマってる自分自体、めっちゃ面白くない?と展開するルートがあります。
それが自分なのだとしたら――実際、社会的状況としてはそうなので、そうとしか思えないわけですが、もし本当にそうだとしたら――「もういいわ」みたいな感じで、それまで「自分」とみなしていた存在を突き放すことで、何でもなくなるというか、逆にへんに面白い感じがしてくるんですよね
この「死んでみる」は、能力に依存しない、というのが重要だと荒谷氏はいう。頭がいいとか、経験が豊富だとか、そういうこととは別の回路を使う。誰でも、自分の前提を外すことはできる。もちろん、そんなに簡単ではないかもしれない。でも、原理的には誰にでも開かれている回路だ。
「囚われる」という感覚は、キャリアブレイクでも中心にある
北野はここで、荒谷氏の言葉と、キャリアブレイクをした人たちの言葉が重なることに気づく。
キャリアブレイクする人たちが口にする言葉に、『囚われていた』というものが多い。親の価値観に囚われた、会社の常識に囚われた、こうあるべきという固定観念に囚われた。それをどうにかしたくて、一度立ち止まろうとする
そして、「手放す」という言葉も頻繁に出てくる。仕事を手放す、肩書きを手放す、「ちゃんとしなければ」という感覚を手放す。キャリアブレイクとはある意味で、今まで自分を縛っていたものをいったん手放す実験でもある。
荒谷氏が言う「死んでみる」と、キャリアブレイクで経験する「手放す」は、おそらく同じ感覚を指している。離職という外的な変化がそれを促すこともある。しかし荒谷氏の言葉は、必ずしも仕事を辞めなくても、その感覚は内側から引き起こせることを示唆している。
フモール生活は、修行でもある
荒谷氏はいま、自分が置かれたしんどい状況を「修行」と呼んでいる。拘束された環境の中で、それでもゼロ地点に立ち返り続ける試み。状況がどれだけ積み重なっても、一つひとつのことに純粋に向き合う練習。
フモールは、状況が整ってからようやく実践できるものではない。むしろ、状況が最も厳しいときにこそ試される。そして、それが少しでもできたとき、世界はほんの少しだけ違って見え始める。
キャリアブレイクを経験した人が「あの時間があったから、何かが軽くなった」と語るとき、そこにあるのもきっと同じ感覚だ。一度「死んでみた」ことで、また違う自分として立ち返ってこられた感覚。
そこにあるのもきっと同じ感覚だ。一度「死んでみた」ことで、また違う自分として立ち返ってこられた感覚。
2026年05月06日
PARTNER

荒谷大輔
慶應義塾大学文学部教授/江戸川大学名誉教授
専門は倫理学・哲学。近現代フランス思想、とりわけジャック・ラカンに依拠した精神分析を主たる研究領域とする。近年は資本主義以後の社会モデルに関心を寄せ、著書『贈与経済2.0』において貨幣に代わる価値の媒介としての贈与の制度化を構想。理論と実践を往還する姿勢を貫いている。
WRITER

北野 貴大
代表理事 / 一般社団法人キャリアブレイク研究所
2014年にJR西日本グループに新卒で入社し、都市開発に従事。妻のキャリアブレイクをきっかけに、キャリアブレイク中の人のための宿「OKAYU HOTEL」を2021年にスタート(現在は奈良で運営中)。退職後、一般社団法人キャリアブレイク研究所を理事2人と共に2022年に設立。2023年より、大阪公立大学大学院経営学研究科付属イノベーティブシティ大阪ラボ特別研究員。
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