vol.4 ゼロ地点に立つ、ということ——1から数えるのではなく、0から数える

前提を外すと、カオスになるのか
哲学には「括弧に入れる」という作法がある。ある命題を、正しいとも誤りとも判断せず、いったん保留にする。その状態で思考を動かしてみる。
荒谷氏が「ゼロ地点に立つ」と呼ぶのも、これに近い。ただし、対象はもっと根本的なものだ。私たちが「当たり前」と思って疑わずにいる、あらゆる前提そのもの。
普通は1から数えるんですよ。ある程度の前提を置いて、そこを起点に考えていく。数学で言ったら公理みたいなものですね。「これを最初に設定して、そこから展開を考える」という。最初に大前提がなければロジックが始まらないでしょ、という発想です。でもゼロ地点に立つというのは、その大前提を外すということなんですよ。
「大前提を外したら、わけがわからなくなる」と思う人は多い。カオスになる、秩序が崩壊する、何でもありになる。それが一般的な恐れだろう。
しかし荒谷氏は、その恐れ自体が錯覚だと言う。
「秩序がなかったらカオスだ」というのは、秩序の内側から見た想定なんですよ。「これがなかったら大変なことになるでしょ」と、内側からその外側を眺めて言っているだけで。極端にいえば「人を殺してはいけない」という法律も、それがなくなったら大変なことになると思われるかもしれませんが、実際に外してみたら、別に、あえて人を傷つけたくなるわけでもなくない?みたいな。前提がなければ何でもありになるというのは、前提の中にいる人間の幻想だと思います。
外してみたら、何が起きるか。「ただ自由になる」と荒谷氏は言う。
ルールはそこにある。材料もそこら辺中にある。それを自由に使える立ち位置に立つということです。前提を外すと自由になるだけで、でも中にいると怖くてできない。そういうものだと思います。
キャリアブレイクする人が感じる「まっさら願望」
この話を聞きながら、私はキャリアブレイク中の人たちがよく口にする言葉を思い出していた。
「まっさらになりたかった」。
肩書きを手放して、所属を失って、役割から降りて。その先に何があるかよりも、まず「何でもない自分」に一度なりたいという感覚。それがキャリアブレイクを選ぶ動機として、繰り返し語られる。
荒谷氏が言う「前提を外す」こととへ共鳴する。会社員として積み重ねてきた評価基準、キャリアの文法、「ちゃんとしなければ」という規範——それらは、知らないうちに内面化された「公理」だ。その公理を持ったまま考えている限り、どれだけ自由に考えようとしても、1から数えていることになる。
荒谷氏の言葉で言えば、「枠組みありきで回っているから、その中の最適解しか見えない」。
外せばいいんですよ、ただ。いつでもどこでも誰でも、外しさえすればその状態になれる。ただ、自分がその枠組みにとらわれていると、なかなか出られない。出ることさえ厭わなければ、いつでも出られる。
キャリアブレイクは、その「出ること」を、環境ごと実現しようとする試みでもある。職場という枠組み、日常のリズム、他者からの期待の視線。それらを物理的に遠ざけることで、「前提を外す」という内的な運動を、身体で体験する。
「囚われている」と気づくこと
ただし、荒谷氏はこうも続ける。
会社でガチガチに働きながら、自分だけがこうしようとしても、難しいところはあるかもしれません。解放されたとしても、それが単に自分の主観的な逃避にすぎないのではないかとも思えて、周りとの関係の中で実感を持てないこともあるでしょう。自分が持っている感覚の確かさを感じるための環境が必要なこともある。
環境が変わらないまま内側だけ変えようとすると、「これは自分のわがままなんじゃないか」という揺り戻しが来る。ゼロ地点に立ったはずなのに、また1に引き戻される。
だからこそ、キャリアブレイクを経験した人が語る言葉には、「あの時間があったから、何かの確信が生まれた」というものが多い。ゼロ地点に立つことを、一度、ちゃんと経験したという感覚。その核ができると、枠組みの中に戻っても、もう同じ縛られ方はしない。
一回抜け出して、「これだ」というのがわかれば、もう一回戻ったとしても、「これでいいんだ」と確信ができる。別に何でも大丈夫、みたいな感じになれる。その核を作るためのブレイクなのかもしれないですね。
ゼロから数えはじめる
「フモール」という言葉は、自分を宙吊りにして社会規範の重力から逃れることを指す。その身振りの根底にあるのが、この「ゼロ地点」という発想だ。
1から数えていれば、どこかで行き詰まる。前提そのものが問題だったとき、1からいくら数え直しても、同じ答えしか出ない。
ゼロから数えるとは、前提を外すことではなく、前提を「材料の一つ」として扱えるようになることだと思う。ルールを破るのではなく、ルールと自由な距離を保てる立ち位置に立つ。
キャリアブレイクが開くのも、そういう場所かもしれない。
2026年05月23日
PARTNER

荒谷大輔
慶應義塾大学文学部教授/江戸川大学名誉教授
専門は倫理学・哲学。近現代フランス思想、とりわけジャック・ラカンに依拠した精神分析を主たる研究領域とする。近年は資本主義以後の社会モデルに関心を寄せ、著書『贈与経済2.0』において貨幣に代わる価値の媒介としての贈与の制度化を構想。理論と実践を往還する姿勢を貫いている。
WRITER

北野 貴大
代表理事 / 一般社団法人キャリアブレイク研究所
2014年にJR西日本グループに新卒で入社し、都市開発に従事。妻のキャリアブレイクをきっかけに、キャリアブレイク中の人のための宿「OKAYU HOTEL」を2021年にスタート(現在は奈良で運営中)。退職後、一般社団法人キャリアブレイク研究所を理事2人と共に2022年に設立。2023年より、大阪公立大学大学院経営学研究科付属イノベーティブシティ大阪ラボ特別研究員。
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