vol.5 書籍「贈与経済2.0」が目指したもの——ゼロ地点に立ち戻れる社会

渋谷で人のいない道を歩く哲学者
荒谷氏は雑踏が嫌いだという。
理由を聞くと、こんな答えが返ってきた。
みんな流れに身を任せている体が本当に嫌なんですよ。ほとんど何も考えずに足を進めている。一般性に乗っかってさえいれば前に進めるという、その身体の状態に抵抗があります。システムのコードを身体に染み込ませている動きのように思えて。
だから荒谷氏は、街を歩くとき、必ず人のいない道を探す。Google マップが示す最短ルートではなく、何十年もかけて自分で開発した「誰もいない経路」を通る。
一例を挙げると、慶應義塾大学からお台場へ行く場合。Google マップで調べれば「田町から新橋へ出て、ゆりかもめ線に乗る」と出る。しかし荒谷氏のルートは違う。大学近くでレンタル自転車を借り、人っ子一人いない道を芝浦ふ頭まで走る。そこで自転車を返し、ゆりかもめ線の芝浦ふ頭駅から乗る。
芝浦ふ頭駅って、ホームに本当に誰もいないんですよ。目の前に海がバーッとある。「これ東京か?」という状態で電車を待てる。このルートを開発した時は、すごく嬉しかったですね。
「一般性のスコープから外れることで、別なアンテナが立つ」と荒谷氏は言う。
この話を聞きながら、私はこれが単なる「個性的なルート開拓」の話ではないと感じていた。これは哲学の実践そのものだ。「みんながそうするから」という前提を外したときに初めて見えてくる道を、荒谷氏は日常の中で文字通り歩いている。
「贈与経済2.0」はどこから来たのか
では、そのような人物がなぜ「贈与経済2.0」という書籍を書いたのか。
荒谷氏は、「贈与経済」という概念を出発点にしてこの本を構想したわけではないという。むしろ逆で、最初は贈与経済という言葉に対して、かなり懐疑的だった。
贈与経済が好きな人はその前から周りに何人もいたんですが、ちょっとコミットしきれないと思っていました。「昔はそうだった」という話からの展開が薄くて、「だから何?」という感じもあった。一言で言えば「ロマン主義」の匂いを感じて敬遠していました。
モース(贈与論の源流となった社会学者)が描いた未開社会の贈与の仕組みを、「失われた理想として取り戻そう」とする運動は、20世紀を通じて繰り返されてきた。しかし荒谷氏の目には、それは「満たされない欲求を新しい主人に託す」ための別の枠組みでしかなかった。
では、なぜ最終的に「贈与経済2.0」という本が生まれたのか。
実は最初は「ゼロポイントエコノミー」という言葉を使っていました。ゼロベースで経済を考え直すということをやっていたら、これは贈与経済に似ていると思われるだろうな、と後から気づいた感じです。「困ったな、どうやって区別しよう」みたいな感じだったかもしれません。
「贈与経済2.0」は、過去の理想を取り戻そうとする運動ではない。むしろ、ゼロ地点から問い直したとき、社会はどう設計できるかという問いから生まれた構想だった。
「他者との関係で生きるけど、自己決定できる」
荒谷氏が目指したのは、だれしもが囚われた価値観をキャンセルできる「ゼロ地点」という考え方だった(詳しくは第4話をご覧ください)。ただ、それは他人から影響を受けないように、他人と関わらず生きていくということではない。
荒谷氏が最終的に言葉にしたのは、こういう社会像だった。
何をやりたかったかを一言で言うと、他者との関係の中で生きるんだけど、自分でちゃんと決めていくという要素がちゃんと残されている社会。それをどうやってシステム化できるかということを考えていたような気がします。
他者と関わりながら、それでもゼロ地点に立ち戻れる。流れに飲み込まれることなく、自分で選び続けられる。それを個人の意志や強さに頼るのではなく、社会の仕組みとして実現しようとした。
それが「贈与経済」的な考え方だったのだ。
キャリアブレイクという文化と、この哲学者
「贈与経済2.0」とキャリアブレイクは、直接結びつくわけではない。荒谷氏がキャリアブレイクを研究してきたわけでも、キャリアブレイクが贈与経済の実践であるわけでもない。
しかし、キャリアブレイクが根づかせようとしているのも、「一度立ち止まって、ゼロから問い直せる」という感覚が当たり前になった社会だ。「学校を出たら働き続けるのが正常」という公理を括弧に入れ、自分のペースで人生を選び直せる余地がある社会。他者と繋がりながら、それでも自己決定を手放さない生き方が、文化として根づいている社会。
荒谷氏の哲学は、キャリアブレイクの意味を、別の角度から説明してくれる。それは単に「休む権利」の話ではない。1から数えることをいったん止めて、0から問い直すという、人間にとって本質的な運動の話だ。
2026年05月23日
PARTNER

荒谷大輔
慶應義塾大学文学部教授/江戸川大学名誉教授
専門は倫理学・哲学。近現代フランス思想、とりわけジャック・ラカンに依拠した精神分析を主たる研究領域とする。近年は資本主義以後の社会モデルに関心を寄せ、著書『贈与経済2.0』において貨幣に代わる価値の媒介としての贈与の制度化を構想。理論と実践を往還する姿勢を貫いている。
WRITER

北野 貴大
代表理事 / 一般社団法人キャリアブレイク研究所
2014年にJR西日本グループに新卒で入社し、都市開発に従事。妻のキャリアブレイクをきっかけに、キャリアブレイク中の人のための宿「OKAYU HOTEL」を2021年にスタート(現在は奈良で運営中)。退職後、一般社団法人キャリアブレイク研究所を理事2人と共に2022年に設立。2023年より、大阪公立大学大学院経営学研究科付属イノベーティブシティ大阪ラボ特別研究員。
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